イエスキリストの
愛するみなさんへ
ヒラン・インディカ
「サマリアの女は水瓶をそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
さあ、見に来てください。わたしがおこなったことをすべて言い
当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
ヨハネ4:28-29
この前のオブレート会の黙想会の時に使っていた聖書の言葉で、
わたしの目に止まった一つのみ言葉です。教会の奉仕として神様の
使命を果たしているわたしたちに宣教のやり方を教えて下さっている
のではないかと思います。神様がわたしたちに天の国を告げ知らせる
ために招いてくださるのはわたしたちが日常生活を送っている場面
からです。みんなと一緒に普通の生き方をしているうちに考えさせる
出来事があるかもしれません。
それは毎日誰にも会わずにすむ時間に誰にも会いたくない、という
気持ちのサマリアの女が水を汲みにきたのと同じです。このサマリアの
女は水瓶と一緒だった生活に慣れていてイエス様に会うまでは何も不安が
なかったようです。でもイエス様に会って考えさせることを経験した時に
「女は水瓶をそこにおいたまま町に行き人々に言った」ということはイエス
さまに出会ったら今まで持っていたもの、持っていた考え方がもう必要
ではないという意味です。
水瓶をそこにおいたまま町に行ったサマリアの女は何を持っていたので
しょうか。それは空の水瓶の代わりにイエス様に出会った経験で満たされた
自分の人生の壺だと思います。それは彼女の自信に満ちた招きの言葉でも
表わしているのではないか、と思います。
「さあ、見に来てください。わたしがおこなったことをすべて言い当てた人
がいます。」
この言葉を通して考えてみる時、やはりわたしたちの宣教のやり方はこれに
なるべきではないか、と思います。たとえば、「このようにしてくださった
イエスがいます、見に来てください。経験しに来てください」というのが
わたしたちの宣教ではないでしょうか。ですから、宣教のためにわたしたちが
持たないといけないのは、イエス様の経験で満たされた人生の壺です。その
経験がない場合は、どう宣教しようか。そして力を尽くして自分の経験を通して
見に来てくださるように誘うわたしたちの次の行動はどうしたらよいのでしょうか。
誘われた方を自由にしてご自分でイエス様を経験できる場面を作るのが次の
ステップではないでしょうか。ですからサマリアの女が言います。
「もしかしたらこの方がメシアかもしれません。」 ヨハネ4:29



私が教会に通い始めるまで、憎くて仕方がなかった言葉は、
「愛」です。
私が過去に頑張ってきたことに対する、そして、
他人と同じ行動ができないことに対する、相手からの怒鳴りです。
いつの日か私は、人間だということを忘れ、
何を言われても叩かれても、平気に起き上がって生きている、
ロボットだと思って生きてきました。
今は洗礼を受け、慈しみ深い神様の愛の中にいて、
神様の愛なしに生きていけなくなりました。
今まで体が拒否反応を示すくらい、通る事ができなかった小学校周辺を、
今は何も考えずに通る事ができます!
自分を憎むことから解放され、過去の他人を許せるようになったのも、
神様に出会ったからです。
このことをいつか、誰かに伝えられる日が来ることを、
祈りながら待ちます。