イエスキリストの
愛するみなさんへ
                     ヒラン・インディカ

道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか。    ルカ24・32

イエス様がエマオで2人の弟子に現れました。それは復活された
イエス様を通して神様に特別に感謝を捧げる復活節によく耳にする
聖書の箇所です。ナザレのイエスを祭司長や議員たちは死刑にする
ため、引き渡して十字架につけてしまいました。このことでがっかり
し、痛みを抱いてエマオに向かっている2人の弟子の気持ちを想像
できるでしょう。2人は希望をかけていた方がそのように亡くなって
しまい、人生の複雑さを感じています。「わたしたちはあの方こそ、
イスラエルを開放してくださると望みをかけていました。」
                           (ルカ24・21)
その時に復活されたイエス様が一緒に歩き始められたが、2人は自分の
ことでいっぱいになって目は遮られてイエスだ、とはわからなかった。
わたしたちも同じく、自分のことで忙しくしている時、イエス様が
一緒に歩いておられることを感じないことがあるかもしれません。
でも、きっとわたしたちの心が燃える時があります。

道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか。

その経験を通してわたしたち一人ひとりを派遣されて復活された
イエス様が、今も一緒に歩いておられます。わたしたちがそこに
気づいていないだけかもしれません。わたしたちと一緒に歩んで
おられる復活されたイエス様が見えないことがあり得るでしょうか。
気付いていないことがあり得るでしょうか。わたしたちがどんなに
弱くても、いろいろなことができないと思ってしまっても、罪の中
で生きていると思っていても、復活されたイエス様が一緒に横で
歩いておられるから、天の国のためなら、何でもできるに違いない
です。必要なのは、わたしたちの心はいつ、なんのために、どう
やって燃えているのかと、悟ることです。復活されたイエス様を
エマオで体験した2人の弟子が時を移さず、出発した、(ルカ24・33)
ようにわたしたちのイエス様の精神を宣べ伝えるため出発点はそれに
決まっているでしょう。

道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか。