イエスキリストの
愛するみなさんへ
                      ヒラン・インディカ

宣べ伝える人がいなければ、どうして気づくことができよう。
遣わされないでどうして宣べ伝えることができよう。
              ローマの信徒への手紙10・14-15

ユスト高山右近の列福を迎えて、日本の教会が特別な恵みに与る
2017年2月です。喜ばしい気持ちでいっぱいになっている私たちに、
神様が語りかけてくださる出来事であるに違いないでしょう。
400年前の一人の信仰者であっても、そして、全世界も、もちろん
日本もだいぶ変わってきていても、神様の言葉と行いは変わらない
でしょう。というのは、神様がいつも宣べ伝える人を探して、選び
出しておられるからです。スリランカやほかの私が行ったことのある
国と違って日本のホテルでも聖書を置いてあることを見て驚きました。
すばらしいね、とその時は思いました。でも、今になっていろいろな
目で見て聖書をただ置いてあるだけでは、神様の御旨にならない
だろうと、思います。

宣べ伝える人がいなければ、どうして気づくことができよう。
という使徒パウロの言葉に、惹かれたからです。

私たちは何を宣べ伝えたらよいのでしょうか。それはもちろん真理の
ことですけれども、具体的な真理ということです。ただの論理でも感情
でも言論でもないのです。というのは、私たちは歴史の中で起こった
ことを宣べ伝えるために神様に招いていただきました。それは、
イエス・キリストがベトレヘムにお生まれになり、ガリレア中を回って
諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や
煩いを癒されました。そして、全世界のために、自らの命をささげ、聖書に
あるとおり復活しました。これこそ、教会が宣べ伝えている天の国が現れた
というよい知らせです。その知らせが、どんなによくても素晴らしくても、
そして、現代の宣べ伝える技術がどんなに発展していても、宣べ伝える人が
いなければ、どうして、聞くことができましょうか。宣べ伝える人が自分の
能力、経験、文化などを通して、宣べ伝えるのです。イエス・キリスト
に出会ったユスト高山右近は、懐深く成熟して、宣べ伝えた人でした。
これから、福者高山右近が私たちの道しるべでありますように。

宣べ伝える人がいなければ、どうして気づくことができよう。
遣わされないでどうして宣べ伝えることができよう。