イエスキリストの
愛するみなさんへ
ヒラン・インディカ
宣べ伝える人がいなければ、どうして気づくことができよう。
遣わされないでどうして宣べ伝えることができよう。
ローマの信徒への手紙10・14-15
今年の2月でユスト高山右近の列福を迎えて3年になります。喜ばしい気持ちで
いっぱいになっている私たちに、神様が語りかけてくださる出来事で、もちろん
日本もだいぶ変わってきていても、神様の言葉と行いは変わらないでしょう。
というのは、神様がいつも宣べ伝える人を探して、選び出しておられるからです。
スリランカやほかの私が行ったことのある国と違って日本のホテルでも聖書を
置いてあることを見て驚きました。すばらしいね、とその時は思いました。
でも、今になっていろいろな目で見て聖書をただ置いてあるだけでは、神様の
御旨にならないだろうと、思います。
「宣べ伝える人がいなければ、どうして気づくことができよう。」
という使徒パウロの言葉に、惹かれたからです。
私たちは何を宣べ伝えたらよいのでしょうか。それはもちろん真理のことです
けれども、具体的な真理ということです。ただの論理でも感情でも言論でもない
のです。というのは、私たちは歴史の中で起こったことを宣べ伝えるために神様に
招いていただきました。それは、イエス・キリストがベトレヘムにお生まれになり、
ガリラヤ中を回って諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる
病気や煩いを癒されました。そして、全世界のために、自らの命をささげ、聖書に
あるとおり復活しました。これこそ、教会が宣べ伝えている天の国が現れたという
よい知らせです。その知らせが、どんなによくても素晴らしくても、そして、現代の
宣べ伝える技術がどんなに発展していても、宣べ伝える人がいなければ、どうして、
聞くことができましょうか。宣べ伝える人が自分の能力、経験、文化などを通して、
宣べ伝えるのです。イエス・キリストに出会ったユスト高山右近は、懐深く成熟して、
宣べ伝えた人でした。これからも、福者高山右近が私たちの道しるべでありますように。
宣べ伝える人がいなければ、どうして気づくことができよう。
遣わされないでどうして宣べ伝えることができよう。