イエスキリストの
愛するみなさんへ
ヒラン・インディカ
弟子は師にまさるものではなく、しもべは主人にまさるものではない。
弟子は師のように、しもべは主人のようになれば、それで十分である。
(マタイ10・24-25)
わたしたちひとりひとりをイエス様の道を歩むために招いてくださった神様が
わたしたちに何を望んでおられるでしょうか。憐れみ深い神様だから、わたし
たちにもちろん無理なお願いをされないと、思います。そしてもちろん、
わたしたちみんなの救いを望んでおられると、思います。その救いを
いただくために使徒パウロがこう教えています。
「口でイエスは主であると公に言い現し、心で神がイエスを死者の中から
復活させられたと信じるならあなたは救われます」
(ローマの信徒への手紙 10・9)
そういう思いで、感謝の気持ちでわたしたちがいつまでも主であるイエス様を
拝む理由はなんでしょうか。パウロの言葉で「あなた方は身代金を払って買い
取られたのです。 (コリントの信徒への手紙一7・23)
イエス様が、わたしたちひとりひとりの救いのために、血を流して命を捧げて
くださったのです。ですから、わたしたちが世の救いのために、わたしたちの
救いのためにイエス様に勝ることはできないし、そうする必要もありません。
「弟子は師のように、しもべは主人のようになれば、それで十分である。」
それでは、主人のようになるためにどういうことが必要でしょうか。それを
使徒パウロが、わたしたちに力強く説明していると思います。
「わたしたちの中には誰ひとり自分のために生きる人はなく、誰ひとり自分の
ために死ぬ人もいません。わたしたちは生きるとすれば、主のために生き、
死ぬとすれば、主のために死ぬのです。したがって生きるにしても死ぬにしても
わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは死んだ人にも
生きている人にも主となられるためです。」ローマの信徒への手紙14・7-9)
どんな時でも、わたしたちが主イエス・キリストのものであるのは、神様が
わたしたちを選んでくださって、 (エフェソの信徒への手紙1・4)
対価を払って買い取られたからです。(コリントの信徒への手紙一6・20)
この恵みを与えてくださったイエス様がわたしたちに言われるのは
「弟子は師のように、しもべは主人のようになれば、それで十分である。」