イエスキリストの
愛するみなさんへ
                     ヒラン・インディカ

大勢の群衆が教えを聞いたり病気を癒していただいたりする
ために集まってきた。だが、イエスは人里離れたところに
退いて祈っておられた。        (ルカ5・15-16)

この聖書の言葉を一般の見方で見たら、どう考えるでしょうか。
どう思うでしょうか。もしかしたら、イエスさまの行動を聞いて
がっかりするかもしれません。もったいないというかもしれません。
あんなに有名になっているのに、あんなに仕事があるのに、あんなに
病気を癒す力を持っているのに、人里離れたところに退いてイエス様が
どうして祈っていられたのでしょうか。教えを聞いたり病気を癒して
いただいたりするために集まってきた大勢の群衆に対して失礼なこと
ではないかと思う可能性もないこともないでしょう。でもイエスさまは
まったく違う思いで人里離れたところに退いて祈ることを決めたのです。
それはイエス様の生涯に関わるポイントだと思います。
神様であったイエス様が人間として世に来られたことで何をするに
しても御父である神様に頼らなければならなかった。このことは福音者
ルカによってイエス様の人間性として強く表わされています。ですから、
イエスさまにとってこの人里離れたところに退いて祈ることがなければ、
御父である神様のみ旨を悟ることもできないし、その使命を果たすための
力もないのです。もし完全な人間であった、また神の子であったイエス様に
でも祈る力があんなに必要であったのなら、弱い人間である私たちにはこの
退いて祈ることはどれほど必要なことでしょうか。
まず、退いて祈るということは、神様との交わりを感じる時間です。
そしてその交わりが私たちにイエス様が神様を父と呼ばれた親しみを感じ
させるのです。
イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。

天の主である父よ、あなたをほめたたえます。 (ルカ 10・21)

その結果、私たちが神様からの使命とそれを果たすための力を見出すのです。
ですから、イエス様が人里離れたところに退いて祈っておられたのは、教えを
聞いたり、病気を癒していただいたりするために来ていた群衆を大事にして
いたからとしか考えられないと思います。
私たちも、私たちの家族の使命、あるいは教会のための使命、また社会のための
使命を大事にするからこそ退いて祈るのでしょう。

大勢の群衆が教えを聞いたり病気を癒していただいたりするために
集まってきた。だが、イエスは人里離れたところに退いて祈っておられた。
                       (ルカ5・15-16)