イエスキリストの
愛するみなさんへ
                   ヒラン・インディカ

イエスがそばに行き手をとって、起こされると熱は去り、
彼女は一同をもてなした。      (マルコ 1・31)

私たちはこの世に生まれてきた時から、あるいは、母の胎内に
いる時から、いろいろな音に対して、反応ができるようになって
いると言われています。音というもので、私たちが成長してきて
いるのではないか、と思います。たとえば、小さい時にいろいろな
言語の音を耳にしていたということで、新しい言語を学ぶ時に役に
立つということがよく話題にのぼっています。そのように考えて
みると、音というものがあるよりもない時に私たちは困った状態に
なってしまうように感じるのではないか、と思います。もちろん、
その大変さは普通に聞こえる人が後で耳が遠くなってしまった時に、
よく経験するでしょう。ですから、音で耳に入ってこないとき、
私たちの反応が遅くなる、またはなにも反応がないままになるかも
しれません。
でも、反応する時には、なんの音もなければ特別な感覚が働き、
もっと強い反応が生まれる時になるとも考えられます。

イエスがそばに行き手をとって、起こされると熱は去り、
彼女は一同をもてなした。

いつも言葉を出して人々を癒されていたイエス様が、なんの言葉もなく、
ただそばに来て手をとって起こされるだけで シモン・ペトロの姑を
癒された、という場面から、なんの音もない時の、不思議な力を見出す
ことが出来ると思います。
この走っていると感じる世界で、私たちはいつも何かの音を聞いている
から、音がないと、さびしく、または、怖く感じることが多いかもしれ
ません。ですから、私たちはなんの言葉も聞こえてこない、あるいは何の
音も出てこない時にしか味わえない、癒しにふれていないのではないか、
と思います。
音でまたは言葉で表せないから私もこの原稿で説明しようとするのは
ふさわしくないでしょう。その特別な力はひとりひとりで感じるしかない
からです。

イエスがそばに行き手をとって、起こされると熱は去り、
彼女は一同をもてなした。