イエスキリストの
愛するみなさんへ
ヒラン・インディカ
主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られるしもべたちは幸いだ。
ルカ12・37
私たちの人生の旅路では、待つことが多くあります。待ち合わせをしている
子どもたち、友達、恋人たちをよく見かけます。このように誰かを待っている
人の気持ちを想像してみた時、そこには、私たちみんなが、イエス様が再び
来られるのをどのように待つかの大きなヒントがあります。
まず、来られる方を希望を持って待ち望むことは、来られる方への信頼感を
表しています。もちろん、人生の経験によって、そして、その2人の関係によって、
出来た信頼感です。私たちも同じように信仰を持つ上で、イエス様が再び来られる
ことを待つのです。そして、私たちが持っている信仰によって、
希望がわいてくるのです。その希望こそ、私たちを導く力をつけるものになって
いると使徒パウロが教えてくださいます。
「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊に
よって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
ローマの信徒への手紙5・5
イエス様が私たち一人一人のために帰ってくるという希望を持っているとしたら、
私たちは目を覚ましていることができるのです。
「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られるしもべたちは幸いだ。」
目を覚ましてイエス様の来られるのを待つしもべとは、どんな人でしょうか。
私たちの人生の経験から見ると、待っている人には様々な待ち方があるでしょう。
本を読みながら待つかも知れません。現代では、ゲームをしながら待つということ
でしょうか。そうすることが多いかもしれませんが、実は誰かを待つというのは、
「その方のことを心に留めて待つこと」ではないでしょうか。特に目を覚まして
イエス様を待つということは、イエス様のことを心に留めて待つということなの
です。ですから、イエス様との経験を思い起こしながら、イエス様から頂いた
恵みを味わいながら待つ、ということです。そのように、イエス様を待っている
方は、待っている時でも、待っているだけでも、イエス様と一致しているから、
幸いと言えるのです。
主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られるしもべたちは幸いだ。