12月15日、コンペンツアル聖フランシスコ修道会
赤尾満治神父様による黙想会がありました。タイトルは、「恵の器」です。
器には2つの意味があり、器の漢字を悪い意味として書くのは、武器。
いい意味での意味として書くのは、神様を喜ばせるための楽器。
果たして私が持っている器は、どちらでしょうか?
その中で神父様は、
「パウロのローマの信徒への手紙9章19〜
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、
異邦人の中からも召し出してくださったのです。」
を用いられました。
神は私たちを憐みの器として作られた。怒りの器としてではない。
私は神様の道具として、使われるために、前に出ているか。
他の人と比べる必要のない、私だけのお恵みをいただいて、
この世に生まれて良かったと、思える喜びの器。
私たちは毎日、隣人と神様、果たして付き合いはどちらの方が長いでしょうか?
隣人との付き合いが長ければ長いほど、
神様の愛・アガペーが喜び踊るほど入っている器を、
見つけるための時間が少ないのではないでしょうか?
神様、どうして私をこの家に?と思うときも必ずある。
だけれども慈しみ深い神様は、憐みの器を持って、
私たちを受け入れてくださいます。
次に神父様は得意の音楽で、宮古島の幼稚園延長の時に作曲した曲を、
披露してくださいました。
神父様は神様から与えていただいた、
作詞作曲、電子オルガンを弾くというお恵みを使って完成した曲を、
喜び踊る器に入れて、周囲の人たちと共有しているようにも思えました。
現在在任中の幼稚園でも、子供たちが分かりやすい曲を作り、
子供たちが歌うことによって、子供たちも神様やイエス様のことが理解でき、
保護者も理解できる。
これは素晴らしい宣教活動だと思いました。